愛おしくって涙が出る

愛おしくって涙が出る


※両親が酷い



 弟が産まれたらしい。

 キャメルは船員の誰かがそんな話をしているのを聞いた。

 おとうと。おとうとってどんなんだろう。

 見てみたくなったキャメルは、この船の何処かにいるはずの弟を探した。

 まだ小さな身体で探し回るには船の中は広く感じただろう。いくつかの部屋を出入りして、疲れてきたしそろそろ探すのをやめようかと思って開いた部屋で、キャメルは今まで聞いたことのない音を聞いた。


「んうぅー、あー」


 人の声のようには聞こえるが、言葉としては意味をなさないその音につられるように近づいた。


「……おとうと?」

「うー」


 そうしてキャメルは初めて弟との邂逅を果たした。

 キャメルは自分よりも小さな生きものに目をぱちくりさせながらそっと手を伸ばしてみた。試しにそのまあるい頬っぺたに触るとビックリするほど柔らかくて、キャメルは咄嗟に手を引っ込めてしまう。

 それからキャメルはしばらくジーッと弟を観察して、今度は小さく握られた手にちょいちょいと触れた。


「わっ」


 弟にキュッと指を握られて、キャメルは小さく声をあげた。握られた指は解かずそのままにしていると、それがお気に召したのか弟がにこにこと笑った。

 それにつられてキャメルも頬が緩んだ。


「ふっ、へへ……おとうと、かわいいねぇ。おれはおまえのお兄ちゃんだよ、よろしくね」


 ◇◆


「それクロのご飯だろ? おれがあげるからこっちに寄越せ」


 キャメルは弟用に準備されていた分の食事を、当番だったらしい男から取り上げてから弟の元に向かった。


「クロ、ご飯だよー!」

「にぃ、まんま」

「お兄ちゃんが食べさせてあげるからね。はい、あーん」


 スプーンを口まで運べば、弟は素直に差し出されたそれを食べた。


「美味しい?」

「んーぁ。にぃ、あぃあーう」

「そっかそっか。いーっぱい食べて大きくなるんだよ」


 まだ満足に話すことなんて出来なくても、弟が自分に何かを話そうとしているのがキャメルは嬉しかった。


 ◇◆


 弟が怪我をいくつもつくって部屋に戻ってきた。そのうちのいくつが両親の教育でついた傷だろう。兄弟二人の教育は、毎回別で行われるから弟がどんな教育を受けているのかキャメルには分からない。

 そんな弟の怪我を手当てするのはキャメルの役割だった。別に誰かに言われたわけではなく、キャメルがそうしたいからするのだ。


「クロ、先に着替えておいで」

「アニキ……」

「うん? 怪我のせいで一人じゃ着替えづらい?」

「違う……そうじゃ、なくて。……どうしていつも、おれの怪我を手当てしてくれるの」


 俯いた弟と視線を合わせようとキャメルは膝をついたが、弟は目を合わせようとはしてくれなかった。


「クロがおれの弟だからかな」


 どうしてか、なんて特に考えたことがなかったキャメルは頭を捻ってみたが、それ以外には今のところ思い浮かびそうになかった。

 大事な弟が怪我をしていたら手当てしたくなるのが兄ってものなんだろうとキャメルはそれで納得していたし、それ以外の理由なんて別に必要ないと思っていた。


「……それって、やっぱり」


 何かを言いたそうに、けれども言いにくそうに口ごもる弟の言葉の続きを待ったが、


「…………なんでも、ない」


 続きが弟の口から出てくることはなかった。

 無理に話す必要はないし、話したくなった時でもいいんだよとキャメルは弟の頭を優しく撫でたが、弟の表情は最後まで晴れることはなかった。


 ◇◆


 人生の分岐点というのは案外あっさりと訪れたりする。

 その日も弟は傷をつくってキャメルの元にやってきた。その手当てをしてやりながら、キャメルは両親にもう少し弟に対する教育を見直してもらえないか直談判しにいこうと考えていた。

 そして今、扉の前。キャメルがドアノブに手を掛けようとした時、中から両親の話し声が聞こえてきた。

 キャメルはなんとなく、そこで扉を開けるのを待って話を聞いてみることにした。それが分岐点の一つ。

 中から聞こえてきたのは、まずはキャメルの話だった。教育は順調。ただ最近弟に構いすぎている、と。そこまでは問題はなかった。しかし、次の発言がキャメルの逆鱗に触れた。


「このままキャメルが最後まで育てばクロコダイルの方は要らなくなるけれど」

「あぁ、処分の方法は考えてある」

「キャメルが余計なことを覚えなくて済むようになるなら、早めの方が都合がいいわ」


 バキッと音を立ててキャメルはドアノブを握ったまま両親のいる部屋に入った。


「おい、何の話だよ」

「聞いていたのか」

「クロをどうするって?」

「落ち着きなさい」


 怒りのままに鋏に手を伸ばしたキャメルに母親がため息をつく。


「あなたがそこまで嫌がるなんてね。クロコダイルの今後については考え直してあげましょうか」

「そんな簡単に自分らの方針を変えてくれるのか。テメェらが息子想いの親で助かったよ」


 キャメルはその喉笛をすぐにでも掻っ切ってやりたい衝動をどうにか抑えながら言った。

 それからしばらくの会話の後に、弟の処遇について判断を引き延ばさせることができた。しかし、もうキャメルは両親には期待していない。自分のこの怒りを子供の癇癪以上に取り合う様子もないヤツらに何を期待しようというのか。


「それと、この部屋の扉だが……」

「知るか、そのへんのヤツらに直させろよ。それはおれの仕事じゃないんでね」


 キャメルは最後にそう吐き捨てて部屋をあとにした。

 この日からわずか数ヶ月後、キャメルは親殺しの称号を得ることになる。


 ◇◆


「兄弟における弟の役割なんてのは兄のスペアでしかない。お前はそういうふうに育てる。分かったな」


 クロコダイルが物心ついた頃に言われた言葉だ。

 それからも、お前は兄のスペアなのだと事ある毎に言われ続けた。

 だから兄も自分をそういうふうに見ているのだと思っていた。けれど兄は、両親と違って自分の頭を撫でてくれる。一緒にご飯を食べてくれる。一緒にお風呂に入って、一緒に眠ってくれる。手を繋いでも怒らない。怪我の手当てもしてくれる。だから少しだけ、ほんの少しだけ期待してしまった。


「クロがおれの弟だからかな」


 だから、その言葉の意味を確かめるのが怖かった。

 その言葉の持つ意味が、両親の言ったものと同じだったらと思うと、もう何も出来なかった。




「────ロ……クロ。……おはよう、魘されているようだったから起こしちゃった。嫌な夢でもみたの?」

「……アニキ」

「うん、どうしたの?」


 どうやらソファで眠っていたらしい。兄は読んでいた本を閉じて、クロコダイルの顔を覗き込んでくる。


「……近ェ」


 クロコダイルはフイと目を逸らして、それから身体を砂に変え兄が座っている向かい側のソファに座り直そうか思案した。


「まだ……しばらく寝る」

「うん、了解」


 再びゆっくり瞼を閉じたクロコダイルの頭を兄が優しく撫でる。

 いくつだと思ってやがる、という台詞は飲みこんで、されるがままに微睡んだ。


『私は昔も今もこれからも、変わらずお前を愛しているよ』


 夢か現実か曖昧になったその境目で、クロコダイルにはそんな言葉が確かに聞こえた。

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